私は多分、狂っているのだ。
天海正宗の場合。
さらり。さらり。
静かな図書室には、時々本の項をめくるさらりという音しか聞こえない。
本の項に目を落としたまま、ちらと腕時計を見やる。
既に時刻は五時を過ぎようとしていた。
この時刻になれば放課後残っている生徒の数も限られたものとなり、
部活に勤しむ生徒の声が聞こえるだけで、学校の中では人の話し声もまばらだ。
そして、一つ溜息を吐く。
「…今日は随分、遅いじゃないか」
誰に言うでもなく(それ以前にこの図書室には誰もいないが)呟き…。
自分の失態に気付いて、小さく舌打ちした。
これではまるで、待っているようではないか。
この時間に必ずやってくる、五月蝿い人物。
最初の出会いは…矢張り此処。
夏休み中に読んでおきたい本が入荷されたので、ずっと此処で読み耽っていたのだ。
此処は私にとって、最も居心地がいい。
程よくきいた空調に、静かな空気、何処か懐かしい本の薫り。
そこで読書を満喫している最中に、現れたのだ。
…私は本来、あまり人と付き合うことを好まない。
粗野で五月蝿い連中とは、会話すらままならない。昔からそうだった。
そうして気付けば、周囲からは人という人が、消えうせていた。
寧ろ、私もそれを望んでいる。今も。
…が、そんな私のテリトリーにも、幾人か勇者の如く図太い神経で寄ってくる者も居る。
まず最初に、泉薫。
普段は何を考えているのか観察眼に優れていると自負する私ですら、分らない。
不思議なヤツである。飄々としているかと思えば、馬鹿ではない。
ヤツは時々、気まぐれのように此処を訪れては、哲学書をひとしきり読み漁っていく。
そのためだろうか、やたらと達観している節もある。
…いや、本の知識だけでは、あの視点は作り出せまい。
そして、次に…彼女。だ。
それはもう、嵐としか言いようの無い突然さで、出会った。
脱線してしまったようだが、彼女とであったのが、夏休みの、この場所だった。
そしてダラダラと続く恋愛相談もどきを、妙な仏心で聞いてしまったのが、
私の運の尽きだったのだろう。
何故、私が。
何故、あんな下らない話を聞かなければならなかったのだろうか。
そして何故、彼女の涙にあんなに突き動かされてしまったのだろうか。
気を取り直すように本の項に視線を滑らせる。
さらり。さらり。
が、内容はあまり入ってこない。
それでも、自分自身に対して体面を保つために続ける。
…私も随分と馬鹿になった。形だけでも取り繕おうとするなどと。
と、私がまた一つ息を吐こうとした瞬間だった。
廊下によく響く声が聞こえた。
「ちょっと!!百、あんたは知らないだろうけどねぇ…実は私、夜の帝王なのよ?!」
………。
額を押さえる私とは対照的に、からかうような響きを多く含んだ楽しげな声が後を追う。
「ほぉ…なかなかやるな、竜胆。
しかし俺はスピードキングだぜ。敵うと思っているのか?」
……。
一瞬だけうっと詰まる音が聞こえた気がした。
「っ、だーかーらー、私の幻の右に敵うヤツなんていないっつってんでしょ」
…。
無遠慮なドアの開き方を見て、私は矢張り狂っていると確信する。
どうしてこんな…。
彼女がドアを開けたことによって、図書室は急に騒がしくなる。
彼女は気配だけでも五月蝿いと感じるのは、この気持ちの所為だけだろうか。
…華やぐ、といっては、欲目がありすぎる。
「あ、居た居た!良かった〜今日はまた借りたいのがあって来たんです」
先輩が帰ってなくて良かった。と入りざまに笑いかけられて、思わず眉を顰めた。
つい緩んでしまいそうになる頬を無理に真顔にしたから。
…その背後に、食えない笑みを浮かべる人物に気付いたから。
名前は…確か立神、立神百。
最近になってこの学校に転校してきたとか。
私から見ればどうということはない容姿だが、女子の間でよく噂されているのを見かける。
見た目の美しさだけではなく、大層頭のきれる男であるということ。
謎が多く、その詳細は一切の謎だというと。
そして何より。
彼女…佐野竜胆の幼馴染であり、『そういう仲』の人物であるらしいと。
確かに学校が始まって以来、よく彼女と一緒に居るのを見かける。
この部屋に来る時は大抵彼女一人であったが、今のように時々一緒に来ることもあった。
私の心を読んだように、立神なる人物は私を見て、一瞬全てを見透かすように目を細めて見せた。
不思議な目だ。敵意があるようで、包容力があるような。
だが私は、君に興味があるわけではない。
…そう。私は。
私は。
ふと視線を逸らした先には、彼女が必死に本棚の一番上に並ぶ本をとろうと、
背伸びしているところだった。
…全く。
軽く息を吐き、立ち上がる。
そしていつものように彼女の背後に歩み寄り、腕を伸ばして本を取ってやる。
彼女は無防備と言うか馬鹿というか、毎回私の気配に気付かない。
腐る程に繰り返されているやり取りだというのに。
現に今、『いつものように』そのとき初めて私の存在に気付いたように、
彼女が後ろを振り向きざまに、上目遣いで私を見る。
「あ…有難う、先輩。何かいっつも取ってもらってるね」
その視線に居心地の悪さを感じて、本をカウンターへ持っていく振りをして、彼女に背を向けた。
背の低い彼女は、いつもああして本を取れないでいる。
そのたび私が、カウンターから出てきて本を取ってやる。
いつものやり取り。
以前、私はある実験を試みた。
彼女はもしや私が取りに来るのを待っているのかと思ったので、
いつものように背伸びする彼女に手を貸さずに居たのだ。
暫くはずっと背伸びしていたが、その内諦めたのか…なんと、椅子を出してきた。
既にご存知だと思うが、椅子と彼女という組み合わせには、あまりいい記憶がない。
どうせまた何らかの事故が起こって彼女が落ちて、
またあーだこーだと文句を言われるのは目に見えている。
どうにも彼女はああいう事故を起こす天才といおうか、才能があるらしい。
そうなっては私の面倒が増えるだけなので、その時もまた結局私が本を取ってやった。
あの時も、今のような笑顔で、
いつものように、笑顔で、
有難う先輩、と…。
「センパーイ、大丈夫?何か遠い目してたけど…もしかして霊視?!」
人の目の前で手を振っていたかと思えば、何を勘違いしたのか、突然後ずさる。
彼女の本を貸し出し処理するために手に持ったまま、考え事に耽っていたようだ。
本当は少し驚いたが、持ち前のポーカーフェイスで何事も無かったかのように睨む。
「…どうしてそういう方向に話が行くのですか…ただ、馬鹿だと思っていたんですよ」
彼女のカードを探し当て…そこに日付を記入する。そして、本の裏表紙の裏にも。
「…先輩、それってこの夜の帝王のこと?」
カードを入れ替えて、本を閉じる。
「他に誰か居るとでも?」
処理が終わって、彼女に本を差し出すと、彼女は眉間に皺を寄せて…
何とも形容し難い表情をしている。
が、何を思ったのか、今度はにんまりとチェシャ猫のような表情になる。
よく変わる表情だ…表情筋が疲れはしまいか。
「あ、先輩はまだ私の実力を知らないからなぁ〜…
どうしよっかな〜…召還しちゃおっかな〜…?」
「全く、好きにして下さいよ…どうぞ、何でも呼び出して下さい」
さぁ。と催促すれば、見た目にも明らかに、彼女がうっと詰まる。
「ふ、ふ〜ん…そゆう態度に出る?
ふ〜ん…じゃあ今回はその度胸に免じて許しちゃうっ!!
はいっお姫様、おつりの五百万円っ!!!」
HA-HA-HA!!と無駄な高笑い。その根拠は何処から出てくるのか。
しかも最後の明らかに『近所の八百屋さん』な物まねは何の脈絡があったのか。
ああ、そもそもどうして私はこんな馬鹿な後輩の茶番につき合わされているのか。
こんなことは、今も本棚にもたれてじっとこっちを見ている…
あの立神という男に任せればいいではないか。
呆れて溜息を吐く私に、ぱっと笑顔になった彼女が本を取って、鞄に入れる。
「ま、とにかく有難う先輩。また来ますね〜」
彼女がそう言ったのを見計らったように、立神は本棚から身を離す。
彼女の前を塞ぐようにして立ち、軽く首を傾げている。
「…いいのか?」
「うん、帰ろ」
言って、彼女が立神を見上げて微笑む。
その横顔は。
「あ、佐野さんじゃ〜〜〜〜んvv」
突然ドアの向こうから、間延びした声が聞こえてきた。
恐らくこの声と、(彼女限定に行使される)このロリっぷりは、泉だろう。
「あ、泉君じゃ〜〜〜〜〜〜んvv何、今帰り?」
いそいそと図書室を出て行った彼女は、廊下に居るであろう泉と話し出した。
泉はああ見えて、実に狡猾だ。
そして彼女に関わるもの全てに対して敵意をむき出しにする。
多分今も、彼女と立神が一緒に居るのが気に食わないのだろう、
計算ずくで邪魔しに来たのだ。
全く、ご苦労なことである。
彼女のいなくなった図書室は、矢張り静かだった。
寧ろ、いつもよりも静かになったといおうか。
その間…立神は彼女の後を追えばいいものを、じっと私を見ている。
彼が音という音を、全て吸収したかのように思えた。
それ程静かな空気だった。
彼の纏う雰囲気はかなり独特である。
寧ろ…人間味が感じられない。
その考えを読んだかのように、立神は軽く首を傾げた。
「…お前は実に、思慮深い。人間の持つ数少ない美点よなぁ」
くっくっく、と喉の奥で笑いながら、彼はちらりとドアを振り返る。
まるで彼女に聞かれていないことを確認するように。
そしてまた向き直った彼が、やっと彩りのある表情を見せた。
今までの上っ面だけの仮面のような表情は、消えうせる。
「…竜胆が、好きか?」
戸惑う私を見通していたかのように、じっと立神が私を見ている。
その表情は、明らかな愉悦。
裂けんばかりに口角をあげているのに、瞳だけは煌々と、射殺すように私を見ていた。
だが。
私とて、何もいえない無能では無い。
「そうですね…貴方も、うかうかしていられませんよ」
挑発すれば、彼はいよいよ楽しそうに、無邪気に笑う。
情けないことに身動きの取れなくなった私に、一度にやりと笑って見せた。
…恐らく、彼本来の笑い方なのだろうが…私の知る限りでは、人間はこんな笑い方をしない。
化け物じみた、といえば陳腐になってしまうが、正にそれが当てはまる。
以前彼女が好きな相手が神だと言っていたのを、ふと思い出した。
まさか。と、思っていた。ものの例えだったのだろうし、第一私は無神論者だ。
だが…これではまるで。
考えに耽っていた私に、立神は一度緩く首を振って見せた。
残念だとでも言うかのように。
そして。
「あれは、やらぬ」
だろうな。
君が手放すなどとは、思っていないさ。
諦めたように息を吐けば、タイミングを見計らったかのように、
彼女がドアから顔を出す。
「百〜〜帰ろうよ〜〜。あ、泉君引っ張んないでって!!ちょ、ちょっと〜〜〜?!」
おかしな悲鳴をあげながら、彼女が必死に手招きしている。
それを見止めて立神が、漸く私に背を向けた。
それに何処かほっとしながら、私は気分を落ち着けようと、読みかけの本に手を伸ばした。
が。
「あ、先輩さよーならー!また来ますね〜」
相変わらずドアから頭だけを覗かせた状態で、彼女が大きく手を振っている。
満面の笑みで。
こちらを一瞬だけ見た立神の表情は…
おかしなことに、彼らしくもない、子どもじみた明らかな不愉快の表情。
今度は、緩む頬の筋肉を抑えようとは、不思議と思わなかった。
「五月蝿いですね、早く帰りなさい」
一瞬だけ、彼女がぽかんとした顔をする。
そしてまた直ぐに、先ほど以上の笑顔で、手を振った。
「竜胆、何を阿呆面しているのだ…行くぞ」
私に対して無防備に笑顔を見せた仕返しなのだろうか、
立神が彼女と指を絡めて、軽く引いている。
「え、?あ、うん…って、阿呆面は無いでしょ!あんた乙女に向かってそりゃNGよ」
「ちょっと〜〜百はずっと先輩と話してりゃいいじゃん。
俺は佐野さんと2人で帰るし…ネッ佐野さんv」
「えっ?!あ、そ、そうですけどね!!襲いたいなんてそんなことないですけどね!!」
「竜胆、それ以上は放送禁止だ。いつもどおり自主規制してろ」
「え〜〜?何のことぉ?てゆーかさ佐野さん今日は……」
声が遠ざかり、ついに何も聞こえなくなった。
穏やかな、静寂。
夕陽は既に、色を変えようとしている。
群青が辺りを支配する頃には、私も帰らなければ。
ただ何となく気が向いて本を手に取り、項をめくる。
さらり。さらり。
いつもどおり。いつもどおりだ。
彼女がいなくなった後の、虚しさを埋めるように文字の羅列を追ってしまうクセまでも。
全く以って、私も彼女も、学習能力が無い。
私は多分、狂っているのだ。
あの五月蝿くて粗野な、彼女が好きだなどと。
あの笑顔が好きなどと。
ただし、その笑顔は決してこちらに向けられることのない、横顔だったけれど。
「…全く。私も酔狂な人間だ」
オワリ
あとがき
天海先輩視点でお送りしました。
元ネタはラルクの曲から。
「誰かのこと思ってる 横顔でも 素敵だったから」という歌詞が
引っ掛かって書いてみました。
後はなぜか延々とストレイテナァのヂスコグラヒーをリピート。
ウンウン。あの曲ははかどるねい。
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