13.海と狐







窓からふく風に、前髪がそよそよと揺られて、今にも沈んでいきそう。
しかし…

「竜胆」

しっかりした声が、私を呼ぶ。
眠いから、放っておいて下さいな…。

「おい、起きろ。竜胆」

揺さぶっちゃ駄目。寝てるんだから。
「極北の國から」風に言うなら、『まだ子どもが寝てるでしょぉ!』
…どうでもいいか。そんなこと。

「朝からだらしない顔をするな。目に毒だぜ」

…うるさいねぇ…。
大体お前は誰だ。乙女の寝顔を拝見するなんて、百億年早い。

「この俺が来てやったというのに…おい、竜胆。遊ぶぞ」

遊ぶんですか。嫌です。寝さして下さい。
他あたって…。

「……駄目だな」

すっと気配が遠のいた気がした。
やっとこれで眠れる…と。いよいよ布団に頭を押し付けたときだった。

「竜胆!火事だ!」

急激に気配が近寄り、耳元で大きな声を出すではないか。


急な覚醒に勢いよく起き上がり、思わず辺りを見渡す。
ばくばくと心臓が早鐘を打ち、
ひぢょうぢたいだああ!!と頭の何処かで聞こえた気がした。
「何っ?何ナニ??!何処?!ウチ?!」
慌てるあまり枕を抱きしめながら叫ぶ私の傍から、すっとまた気配が消える。
そして見えた影に目を留めて、今度は急激に力が抜けていく。
「……へ…?」
…見慣れた姿のその人物…。
「…百…火事は…?」
呆然と尋ねれば、ふんと鼻で笑われた。
「…嘘に決まっている」
私はまたベッドに上体ごと突っ伏してしまった。



「それで…一体どうしたってのよ」
寝起きのむくんだ顔で、ちらりと百を見上げる。
どうやら今回の彼はばっちり玄関から入ってきたようで、
母が入れた紅茶を暢気に啜っている。
どうやら母に、ついでに起こしてくれと頼まれたらしい。
…仮にも娘の眠る部屋に、勝手に男を入れるのかね、あのヒトは…。
「いや。お前と遊びたくなった。相手しろ」
遊びたくなったって…あーた…。
またまたベッドとチューしそうになりながら、ぼさぼさの頭を傾げる。
…内心の嬉しさを隠しながら、だけど。
まさか、あの決心をした次の日の朝に会えるなんて。
…シチュエーションは、まぁよしとして。
「遊ぶたって…何して遊ぶの…?」
言った後、百がふと考え込むような仕草をする。
「そうだな…そこまで考えていなかったが」
「何それ…」
ぐったりと項垂れる。ああ。嬉しいには嬉しいけど…
…眠いなか起こされたのは、やっぱりちょっときつかった。
「お前も考えろ。でなきゃくすぐるぞ」
ハロウィンの子どものようなことを言いながら、彼は真面目に考え込む。
「あんた…ハロウィンはまだ早いよ…」
ぐったりしながら言えば、彼が何だそれは、と切り返す。
「…知らない?西洋のお祭りで、怖い格好に変装した子ども達が、
お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ、って言って大人を脅してお菓子を取ってくの…」
「ほぉ。そんなものがな。世は動乱だな。下克上というやつか」
「…あんた。どんな想像したのよ、今」
そんな物騒なもんじゃないんだけど…と言おうとしたが、面倒くさいのでやめた。
どうせ私にも百にも、縁遠いことである。此処は日本。しかも田んぼが美しいド田舎。
此処でハロウィンパーティーなどあった日には、
皆一様に割烹着姿に鎌を持って現れるに過ぎないだろうな。
でもその光景ってただの農民一揆だよね……ある意味凄く怖いけど。
もくもくと一人妄想していると、横に居た百が徐に立ち上がった。
「変装か…いいな」
突然言い出した彼の意図を掴めず、何が。と問う私の視線に、
百は心なしか目をキラキラさせながら笑う。
「竜胆、俺も変装する。そうだ、それは面白そうだ」


…まず思ったのは、正気かこの神様。ということ。
そして次には…でもちょっと見てみたい。ということだった。
彼曰く
「いいか、俺は今から変装する。そして普通の人間のように町を闊歩する」
素晴らしい。と若干悦に浸っている彼は、いそいそと部屋を出て行った。
……。
いそいそ出て行ったのはいいけど…。
何をするつもりなんだろう。
何処行ったんだ。そして何をどうするつもりなんだ。
大体変装たって、あの格好以外の百を見たことがないけど…。
寝ぼけ頭で悶々と考える私を他所に、直ぐに部屋のドアが開いた。
早すぎやしないか、という驚きを感じつつ、入ってきた人物を見て…
固まる。

「どうだ?似合っているか?」

…誰だこの兄ちゃん。こんな兄ちゃん知らない。

「おい、答えぬか。おい…竜胆?」

顔を覗き込む顔は…確かに百だ。そうなのだが…。
その格好は、何だか…見事に普通のお方である。人間の。
細身の黒のジーンズに、横に大きく開いた、ゆるい白のロンT。
その下には黒のタンクトップを着ているのだが、すらりと白い首筋と、
華奢だが骨張った肩のラインが微かに見えている。
長め前髪は無造作に横に分けられて、その隙間から鋭く不思議な瞳が除いていた。

「…あんた、誰」

呟いた私を見て、その人物はにぃと唇を歪めた。

「完璧だな」

ぼんやりする私とは対照的に、百はとても満足そうだ。
しかし…やっぱ百って、綺麗。
彼が本当に人間だったら、相当モテただろうなぁ。
素敵な…素敵な、人だし。

「何処に行きたい?」

問いかけに、はっとして顔をあげる。
すると人間のような…しかもとても素敵な殿方のような、百が、私を見下ろしている。
突然の質問の意味が分らず、大きく目を瞬かせる。
「何処って…どっか行くの?」
「当然だ。この格好なら、お前は嫌がらないだろう?」
得意げにふんぞりかえっているが。
「え、嫌がるって…?」
「だから、お前はあの格好の俺では、他人の目を気にするだろう?
俺としてはいくら人間に見られようと平気だが、お前は厭う」
そういうことだったか…
まぁね。だって神様だってバレちゃったら、色々まずそうじゃない。
それに…

「嫌なわけじゃないんだけど…だって、百が他の人に視得たら」

視得たら?

瞬間、ちょっとドキっとした。
それに気付いているのかいないのか、百がにやりと唇を歪める。
「視得たら、何だ?」
視得たら…
自分の気持ちに、怖くなる。
それを誤魔化すように軽く首を振って、また何でもないような表情で百を見上げた。
「そうだ!私百と一緒に海行きたいな。プール行ってからずっと思ってたの」
ほら、泳げるようになったし。
まくし立てるように言えば、百もふっと気がそれたように考え込む仕草をする。
「海か…溺れるなよ。」
きっとプールで溺れかけたことを指しているのだろう、意地悪く笑んだ百が軽く頷いた。
「溺れないっ!いつもいつも溺れるわけないじゃない」
全く。と呟けば、百が綺麗に目を細めた。
言いかけた言葉を敢えて追求しないのか、百はもう準備を促してくる。

だって、百が他のヒトにも視得たら。

視得たら、嫌なの。
私だけが百を見ていたいの。
私だけを見て欲しいの。

こんなこと、言えるわけない。




********



二枚切符を買って、電車に乗る。
…流石に百のポケットから財布が出てきたことには驚いた。
だって。ねぇ。神様がお金持ってるだなんて思ってなかったし。
そう。それに服だってそうである。百がどうしてそんな服を持ってらっさるのか。
どうしてかと尋ねれば、曰く
「人間の使う通貨や着衣など、神の世界のものに比べれば容易いものだぜ」
だそうだ。答えになっていない。
…けど、気前よく電車賃奢ってくれたから…ま。いいか。
そんなこんなで乗り込んだ車両には人気が無くて、明るい光の中で静かに揺れていた。
歩いてるときも、こうして電車に乗るときも、百は本当に普通の人間のようだ。
「…電車とは、何と遅いものか…」
…時々出てくる、こういう発言を除けば。
「………十分早いと思うけど」
おずおずと突っ込んでみるが、彼は相変わらず窓で移り変わる景色を眺めている。
「…こんな速さでは日が暮れる…」
「…そうっすか」
そりゃあんた、神様の速さを人工物に求めちゃいかんのではないでしょーか…。
突っ込みたい気持ちを抑えて、私も百と同じように首をひねって窓の外へ目を向ける。
海へと続く家並みはまばらで、電車が通っていることすら奇跡とも思えるような、
田舎の景色を流してゆく。
空の水色と緑と、所々家の屋根の赤を混ぜたような色の流れが、
追いかけてくる太陽の中きらめいていた。
開け放された窓から流れる風は微かに潮の香りがして、海へ続いていることを告げている。
隣の百は飽きもせずその光景を眺めている。
その横顔を盗み見ながら、ふと思う。

百が、人間だったら良かった。

…勿論、百は百で、神様じゃなかったとしたら、きっと今の百じゃないんだろけど。
でも、人間だったら。
今この瞬間に錯覚するように、普通の人間だったら。

ぼうっとしていた私に気付いたのか、百が首を傾げる。
「どうかしたのか。いや、俺もこれでは流石に遅すぎるとは思うが…」
…この神様は。
この速さじゃ遅いよねぇ。もっと飛ばしてみろやー。
なんてことを私が考えていたとでも思っているのだろうか。
「…そういうことじゃないけど。百が人間だったら、色々大変だろうなぁって思ってさ」
ちょっとニュアンスは違うけど、本当のことを言ってみる。
すると百もちょっと考え込んで…そのまま遠くを見つめた。
「…どうだろうな」
不透明な表情になる百が、何だか…あの時とちょっと似てる気がして。
私はわざと明るい声を出す。
「百はさ、人間になりたいって思ったことない?」
途端、珍しく彼はちょっと驚いたようだった。
「俺がか?人間に?」
「うん、無い?」
すると百は一瞬だけ笑うと、また窓に視線を戻した。
その表情は丁度、私からは見えなかった。
「そうだな…大変かもしれぬよ」
抑えた調子で呟かれた言葉の意味が分らなくて、私はただ黙ってしまった。
気まずいわけじゃないけど。これ以上余計なことを言ってしまったら、
また百が遠ざかりそうで。また、あの時みたいに。
私の着ている白のワンピースの裾が、電車の窓から送られる風に揺られて頼りなく揺れた。



少しの沈黙の後、電車は案外速く目的地へと停車した。
この駅に着くまでに殆どの客は降りてしまっていて、殆ど二人きりになっていた。
駅で降りると潮の香りはいよいよ強くて、涼しい風がスカートを翻す。
「はー…海の匂い。何か久しぶりだなぁ」
目一杯空気を吸い込んで、百に笑いかける。
重たい空気も、この期待が全てを凌駕してしまったのだろうか。
はやる気持ちを抑えて、百の手を引っ張る。
…実はコレ、私なりの努力である。今は手を引っ張るだけで精一杯だけど…。
ちょっと頑張ってみたけど、百はされるがままである。
…拍子抜けしちゃうな。けど、ま、いっか。
この程度に触られるのは嫌じゃないってことよね…。
思えば、触れてくるのはいつも百が唐突に触れてくるだけだったし。
…海難救助とか、空中散歩とかね…ホントにろくなことじゃない…。
…嬉しかったんだけどね。
「急がずとも、海は干上がったりしないぜ」
まるで子どもだ。と呟く百も、いつものように笑みを浮かべている。
「あんたねぇ、少しは乙女のスピードに付き合うおうとは思わないの」
「あー。乙女な。そうかもな。乙女な」
呆れた表情で繰り返すのは、明らかにバカにしているんだろうが。
けど、目がそれを裏切って楽しそうだから、まぁいい。
百の手を引いて、海沿いの防波堤が見えてきた。
その向こうに見える青は、空の色を反射しているのにより深く淡く輝いている。
「うわー。凄いなぁ。海なんて本当に久しぶり…!」
眩しさに目を細めながら、ちらりと百を仰ぎ見る。
「俺も、随分と来ていなかったが…海とはこんな色をしていたか」
懐かしそうに呟いている彼の手をぎゅっと握って、私はつい笑ってしまう。
だって。一応こうして手を繋いでいたら、恋人同士みたいに見えるのかもしれない。
勘違いでもいいし、妄想でもいい。今だけ恋人の気分で居たい。
其の様子を見ていたのだろうか、
「何を笑う、竜胆」
訝しげに問う百に、にやりと一瞬笑ってみせる。
「んーん。なんでもない…早く泳ぎに行こうよ」
「まぁ、それもそうだな」
今まで手を引かれるままだった百が、いつもみたいに綺麗に笑って、私の手を軽く引く。
ちょっと驚いた私に気付いた百が振り返り、涼しげに首を傾げた。
「…何でもないよ。さ、行こ」
なんでもなかったみたいに笑って、私は浜辺へと続く道へと踏み出した。



浜辺も人がまばらで、遠くにちらほらとカップルがシートの上で寝転んでいるのが見えた。
私はしょっぱなから暑さにやられて、岩陰でぼんやりしている。
百はといえば、ふくらはぎの半分くらいまでジーンズをまくって、
気持ち良さそうに浅瀬で目を細めながら遠くを眺めている。
…なんてこった。さっきまではいい雰囲気だったのに…!
暑さなんかに負けるな私!!
…とは言っても、体調がよろしくないもんはしょうがない。
早く回復させて、夏のヴァカンスを楽しまなければ。
ぼーっと百を眺めていた私に気付いたのか、百がこっちに歩いてくるのが見えた。
…本当に、こうして遠くから眺めてると、普通の人みたい。
と。ぼんやりしてる私の視界の隅に、丁度百を指差す、
若くて見目麗しいお二方のお嬢さんの姿が。
海岸に相応しいような、ビキニ姿のお二人は、しきりに百を気にしているようだ。

…まさか、ね。まさか…。

嫌な予感がじて、体調不良の所為ばかりではない嫌な汗が背中を伝う。
が、予感はすぐさま確信に変わる。
お二方がちょっと急ぎ足で百に追いつき、その肩を叩いた。
気付いた百が振り返り、二人と何か話している。
会話の内容はここからじゃ流石に分らないけど…。
こんなシチュエーションで話すことといったらアナタ、一つじゃありませんか。
所謂、逆ナンてやつでしょう。そうでしょう。
思わず立ち上がって百の元へ行こうとしたが…
「…っ…うぅ…」
急に動いたが為に気持ち悪くなって、私は手で口を押さえてうずくまる。
嗚呼。情けない。大体乙女がこんなんでいいのか。
冷や汗と脂汗を混ぜたような、何だか非常に気持ち悪い汗を流しながら
ちらりと百の居る方向を見れば、首を振る百の腕に自分の腕を絡ませ、
女性がしきりに何かを言っているようだ。
流石にそれにはちょっとカチンとくるもんがある。
媚びてんじゃねぇ。と低く呟くが、それはただの奇妙な唸り声にしかならないし。
…百も百で、どーしてそんなのひっぺがしてこっちに来てくれないわけ。

…でも。でも。
百に気があるのが見え見えな、片方の綺麗なお姉さんは、
悔しいことにスタイルが良くて、胸も大きくて、
長い髪もさらさらと優雅に流れてるし、すらりと身長も高くて。
何より遠めで見てても綺麗で。
……百と、お似合いのような気がして。

もし仮に百が人間を好きになるんだとしても、きっとあんな人を選ぶだろう。


「うう…」
ごちゃごちゃ考えていた所為か、いよいよ気持ち悪くなってきて、胸を押さえる。
具合悪いんだぞー!!本当だぞー!!本当だってばー!!
…私のそんなテレパシーも虚しく、未だ女性は百を離す気配が無い。
と、そんなこんなで岩に爪を立ててガリガリやってるうちに、汗がだらだらと背を伝う。
…やばい、マジで死ぬかも。
真昼の惨事!真夏の海の恐怖!!とかいう感じで、午後のニュースを騒がせてしまうよ。
「ううう…情けない…」
ハンカチがあったら噛みたい気分…。
そんなどーでもいいことを思った瞬間だった。

突然背後から、頬にぴたりと冷たいものが当てられた。
「っっのおおおおお???!!!」
思わず飛び上がる程驚いて振り返れば、かがみこむ百。
どうやら水で濡れた手で触れたらしい。
…ああ、びっくりしたぁ…。
「どうだ、具合はよくなったか?」
さらりとそんなことを言ってのけ、私の横に腰掛ける。
「…それより、さっきの女の人たちは?」
多少ぶーたれているだろうか。じと目で百を睨む。
「…?ああ、あやつらのことか…要領を得ないことを言うやつらだったな、全く」
何だか見当外れのことを言いながら、百が私の額に手を当てようと手を伸ばす。
いつものように楽しげで穏やかに言う百に、急に胸のうちで何かが湧き上がる。
「まぁ、大した用ではなかったようだ」
私はそんなことじゃ、納得できない。何を、言われたの。
咄嗟に伸ばされた百の手を跳ね返していた。

「ちゃんと答えてよ!何だったの、あの人たち」
少し驚いたように百が目を見開いたが、また直ぐにいつものように笑った。
其の顔がまた綺麗で…もしかしたら、彼女等にもその顔を見せたのかと思うと、
どうしようもなくムカムカした。
「奴等など俺は知らぬ。何を怒るか、竜胆」
宥めるように言いながら、彼はまた懲りずに手を伸ばした。
今度は振り払うことはしなかったけど…気持ちは抑えられない。
「だって…普通連れが気持ち悪いって言ってるんなら、傍に居るもんじゃないの」
「そうなのか」
聞き流すようにしながら熱を測る百の表情が、心持ち和らぐ。
「そうなの。まして私は…その、百の遊び相手として、第一乙女として!
もちょっと気遣ってもいーんじゃないの」
こんなの、つまんない嫉妬だってのは、分ってるつもりだよ。
でも。でも。
百に釣り合う程自分が綺麗じゃないってことや、
きっと百は私を選んでくれない現実を、目の辺りにしたような気分、だったのだ。
「そうか」
穏やかな声音の百は、何時になく優しい仕草で、私の前髪を軽く払った。
その指先の雫を感じながら、ちょっとうつむく。

精一杯の努力をするつもりが、またこんな風に挫けそう。
強がりしか言えなくて、困らせてばかりで、何の役にも立たない私。
全然魅力的なんかじゃない私。
うつむいて黙ったままの私の額に当たる百の手が冷たいのに、なのに何処か
優しい気がして、私は強く目を瞑った。
「すまないな、竜胆」
ほら、また。そうやって謝ったりする。
謝りたいのは、こっち。
でも
「…ううん、いいの。もう大丈夫だよ」
百の手から逃れるようにして、ちょっと身を引いた。

私は自分に言い聞かせながら、一つ小さく深呼吸する。
…そう。落ち着いて。悲観的になってちゃだめ。
折角こうして、大好きな百と海に居るんだから。
まだまだ、諦めないんだから。

「百、やっぱ人間になったら色々大変かもね。
だってほら、さっきみたいに色んな女の人が百のこと好きになるよ」
モテすぎて困っちゃうってやつ?いいねぇ。羨ましいなー。
おどけて言ったのに、百は黙ったまま静かに私を見つめたまま。
乾いた私の笑い声が静かな中でやたらと響いて、逆に居心地が悪くなる。
何かに失敗したことを悟って、私はそのまま自然な風を装って海に視線をスライドさせた。
百は何も言わず、伸ばした腕もそのままだった。
居心地の悪い沈黙の中、私はなるべく百の表情が見えない所まで、首を捻る。
そして気分を変えようと何か言おうとした瞬間。

「竜胆、辛いのか?」

「…え…」
振り返ると、真剣な表情の百。
大丈夫だよ、と言おうとした私をまたも遮る。
「何が辛い?」
重ねて問いかける声音は波の音と重なって、私の中に静かに落ちてゆく。
「あ、え…何で?」
百が真剣にこんなことを尋ねるのは、初めてのことだ。
それに、何か…大事なことを聞かれたような気もするし…。
「先のような者共が、お前を辛くさせるのか?」
…はぁ、質問には答えてくれないわけね。
百の言うことは一理あるんだけど…別に、あの人たちが悪いわけじゃない。
ただ、私が勝手に嫉妬しちゃっただけで。
百には、そんな私の気持ちが分るだろうか。
「…百は、人間の感情が分らない…?」
自然と呟く声音は小さくて、けれども百の耳にはちゃんと届いていたようだった。
碧い海を背景にして尚、笑った百の笑顔は碧く見えて。
私達が居る岩陰の合間に涼しい風が流れて、座り込んだ私のワンピースの裾を撫でる。
「俺が読心術が出来ることは知っているだろう?だがな…」
ふいに百が、意味深に煌く瞳を細めながら、その綺麗な横顔を見せた。

「…竜胆、お前だけが分らぬ」

それはどういう意味だろう。
単に読心術を使わないから?
それとも…。






つづく






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