15.宣告
真貴さんが、ちょっと険しい表情をするのは初めて見るかもしれない。
元がなまじ綺麗なもんだから、そういう表情でじっと見つめられると、
かなり心臓がバクバクしてしまう。
…怖い。綺麗な人が厳しい表情すると。本当に怖い…。
特に真貴さんはいつもの、あののほほんとした表情しか知らないし…。
こんな風に、私の部屋で2人きりで、しかも私も真貴さんも膝を突き合わせて
正座してるなんて。
黙ったまま、じぃぃっと。瞬きもせず、じーっと。私を見てる。
この居心地の悪さは何なのか…何か悪いことでもしたような気分になっちゃうよ。
で、でも私、何も悪いことしてないはずだ。
………た、多分…。
今日はまた、突然客人がやってきた。
それが、今目の前に居る真貴さん。
突然やってきて、いつもの調子で、ちょっといい?なんて聞かれて。
とりあえず真貴さんだし家の中に入れて、突然話があるって言われて…
なのに真貴さんが黙り込んじゃって、今の状態である。
思い切って、声を出してみる。
「真貴さん…お話って…」
「…うん…」
じっと見つめたまま、それだけ言って…黙り込む。つまりは、振り出し。
嗚呼。私の精一杯の勇気は何処へ…。
惨敗という二文字の元に灰になりかけていた私に、遂に真貴さんの重い口が開く。
「話っていうのはね…百のことなんだわ…」
変に重々しい言い方をするもんだから、私まで結婚を申し込む彼氏よろしく、
殊勝に頭を垂れてみる。
「…はい、百が何か…」
前言撤回。
…これじゃあ、不良息子の母親が、学校に呼び出されたみたいだ。
『うちの息子が何か…?』てな感じのアレ。
「あいつはさぁ…知ってのとおり、神様だよね?」
はぁ、それのことなら、多分私より真貴さんのが詳しく知ってそうだけど…。
とりあえず、聞かれたんだから頷いておく。
「そう、神様…私も薫も神様、そして竜胆ちゃんは、人間」
…。
ちょっと一瞬変な疎外感を感じてしまったけども、うん、それはそうである。
私は神様じゃなくて人間。神様なんて畏れ多いもんだし。
うんうん頷く私に、真貴さんが続ける。
「神の世界に掟は無い。けどね、神が実体を表して、
尚且つ今現在魂を持つもの達を神が直接手を下して傷つけることだけは、
してはいけないんだよ」
饒舌な真貴さんは、そこでちょっと間を置いて、出されたお茶を啜る。
それを丁寧に元の場所に戻して、ふぅ、と一息吐く。
そして
「竜胆ちゃんはさ…百が好きでしょ」
がちゃん!
派手な音を立てながらお茶碗をひっくり返した私は(中身は空だったから良かった…)、
それには目もくれず真貴さんを穴が開く程見つめる。
今…今、なんと仰いましたか。ご主人様。
「…だから、百が好きなんでしょ?竜胆ちゃん…」
し、しかも読心術使った!ずるい!
にやり、という形容詞がぴったりくるように、ちょっとからかい混じりの言葉。
呆然としている私の頬に、どんどん血が集まってくるのが分る。
だって…だって、そりゃあ!あなた!びっくりしちまうぜ!
同時にあちきは照れてしまうでやんす!
既によく分らない言語で何かをぐるぐる考えながらも尚、真貴さんから目が離せない。
「…竜胆ちゃんの一人称が『あちき』になったら、やだなぁ…」
…そりゃ私も嫌だな。
真貴さんに食後のデザートとか取られて
『それあちきのでやんす!返しておくんな!』とか言いたくないけど。
いや、それ以前に今は『あちき』論議してる場合じゃないと思う。
「いや、いやいやいやいや…そうじゃなくて、です。
わわわ私めが百之伸様を、おおおすお御好きと言う…オハナシです」
百之伸て誰だ。という突っ込みはこの際しないで欲しい。
…とりあえず、そのくらい取り乱しているわけです。ハイ。
対して真貴さんは落ち着いた調子で…というより、いつもみたいなのんびりした口調で、
また想像もできない言葉を仰る。
「…ああ、そうそう。そうでしょ?だからね、もう百に関わるのは良くない…」
がこん。という音が、今度は頭の中で聞こえた気がした。
突然何を言うんだろ…と、また呆然とする私に、真貴さんはちょっと表情を引き締める。
そして同時に、ああやっぱりと、少し思った。
世間話の延長のように言うけれど、それは確実に私の心臓を射止める。
が。それじゃ納得いかない。
「で、でも…その、泉君のときは…」
そう、事の顛末を、この御方は何故か知っているようだった。
ならば何故、あの時は何も言わなかったのだろう。
後の話によると、泉君は真貴さんの弟分のような存在(?)なのだと聞いている。
「薫?ああ、あの時はね…薫はね、ただ単に竜胆ちゃんと、
普通の高校生みたいなお付き合いを望んでたからだよ」
…普通の高校生みたいなお付き合い…。
仮に彼と付き合ったとしても、私にはそれしか出来ないけども…。
泉君と空中遊泳しながらイチャイチャvとか、それはまず無いだろうし、御免被る。
「でも…その、泉君も神様、なんですよね…?」
「うん?まぁね〜…でもね、ヤツの場合は竜胆ちゃんに害を及ぼす程のことは
そもそも出来ないからね…まぁ今回は良かったけど、神としては修行不足ってことだよ」
…今このお方、大変失礼なこと(?)を随分はっきり言った気がするけど…。
ま、まぁ…神様の世界もフクザツってことにしておこう。
よく分らんし、何だか知るのが恐ろしい。
「で、百は害があると…?」
「そうだね…百は、とても危険なヤツなんだよ。竜胆ちゃんの幸せを、簡単に奪う。
それにね…竜胆ちゃんの想うような恋心は『感情』を天秤に賭けるけど、
百の恋心は存在を賭ける。百の存在も、竜胆ちゃんの存在も…」
独り言みたいに言って、真貴さんはまたお茶を啜る。
何処か遠い目をした真貴さんは、一瞬だけ哀しげに苦笑した。
…私はこんなときも順調に馬鹿まっしぐらで、実は内容がよく分らない。
ただ、それは酷く恐ろしいことなんじゃないだろうかということだけは感じた。
つまり…人間みたいな、一時のものじゃ終わらないってこと、だよね。
そして、打って変わってきりっとした真貴さんは、きっぱり言い切った。
「…神と人とは、結ばれない」
急に、真貴さんの顔が不思議に歪む。
しかしそれは幻だったみたいに、直ぐにまた真貴さんは綺麗に微笑んだ。
私の握り締めた手が、氷みたいに体温をなくしてくのが分った。
いつか、いつか言われてしまうんじゃないかと思っていた言葉。
それが今こうして現実のものとして突きつけられると、何だか本当に、どうしようもない。
何を突然。だなんて誤魔化す言葉も出てこない。
ただ物凄く鋭利な刃物を、突きつけられた気分だ。
「もう百に、会ってはいけないよ。竜胆ちゃん」
ぐっと言葉に詰まって、うつむく。
きっと真貴さんは悪意からこんなことを言っているんじゃない。
私のこと、百のことを想って、言ってくれているんだ。
けど…全てがあまりに突然のことで、私の脳内は理解しているのに、
理解したくないとでも言うように混乱していく。
きっと真貴さんが言っているのは真実なのだ。
「あの…そ、その…」
上手く言葉に出来ない自分が悔しい。
でも私は百が好きで、いつも堪らなく会いたいんです。
それだけ言うのは簡単なはずなのに、喉につっかえたみたいに、出て来ない。
会ってはいけないって。
関わるなって。
結ばれないって。
それはどうして?
「好きな気持ちは、分るよ…。
けどね、これ以上百のことを想っていても、辛くなるのは竜胆ちゃんだよ」
それでもいいの?
という視線に、自然と瞳がうろたえる。
いや。
それでもいいのかと聞いているんじゃない。
彼は…彼の瞳は、もう私が百に会わないと、そう約束させたがっているのだ。
「でも真貴さん…そんなこと突然言われても…わ、私…」
何か言わなければ。と思うのに、ろくな言葉が出てこない。
一番聞きたいのは『何故』であるはずなのに、それすら出てこない。
「…百には私の方からよく言っておくよ…だから、もう忘れてしまえばいい。
話っていうのはそれだけだよ、竜胆ちゃん…突然ごめんね」
強引に幕を下ろそうとするみたいに、真貴さんが締めくくる。
彼の中では、私がもう過去の人間になろうとしているのが分った。
「そんな…」
呆然と呟く私に、真貴さんはいつもみたいに綺麗に微笑んで見せた。
その笑顔があまりにもいつもと変わらなくて、逆に恐ろしくなる。
「…また困ったことがあったら、今度は私を呼んでね…待っているから」
真貴さんが付け足すように言いながら、
ゆっくりと部屋の空気の中に溶けるように消えて行った。
綺麗な微笑と甘い声音の、その残像だけを残して。
*********
「……またアナタですか」
ぐったりしながら、図書委員の座る司書の椅子に膝を抱えて座りながら、
ぐるぐる無意味に廻ってみる。
それをうざったそうに一瞥した先輩は、さっさと本を棚にしまい始める。
大袈裟に溜息なんかついちゃって…いや、実際嫌なのかなぁ。
その背中をぼんやり眺めていたら、勢いの良かった椅子までも止まる。
…やっぱ百が人間だったら良かった。なんて想った。
「…先輩」
「…何です」
振り返った先輩が、徐々に驚きの表情に変わる。
先輩でもそんな表情するときあんのね。なんて冷静に想いながら、私も先輩を見返す。
心なしか先輩の青白い顔が、戸惑ったように少し首を傾げた。
「…何を泣いているんですか」
強がりを見せたくて、袖でごしごしと涙を拭う。
大体先輩も先輩だ。真貴さんも真貴さんだ。
何より百こそ。どうして。
私は。私は、どうして。
「泣いてなんかないです。これは心の雪解けなので…」
気にしないで下さいよ。
心の雪解けって何だ。と何処かで冷静に考えながら、ちょっと鼻を啜る。
だって。此処でしくしく馬鹿みたいに泣いてたら、凄く格好悪い女の子になるような気がする。
それをぼんやり見ていた先輩が、また本を棚に戻しながら呟く。
「…貴方は変な人だ…」
「先輩に言われたかないですよ」
「屈辱ですね。毎回夜の帝王だの何だのと…訳のわからないことを
アレだけ豪語してらっしゃる方にそう想われているとは…」
本をしまい終わった先輩が、言いながらカウンターを抜けて部室のドアの鍵を外す。
それをぼんやり目で追っていた私は、不機嫌に私を見つめる先輩と目が合った。
何。という視線だけの私の問いかけに、先輩がまた一つ溜息を吐く。
「………早く入りなさい」
迷惑そうな顔もちょっと混じってはいたけど、それでも先輩の顔が優しく見えて。
私は大人しく一つ頷いた。
実はこういう風にして欲しかったのが、ばれてしまっただろうか。
ぼんやり考えながら、あの崩壊しそうなソファに身を沈めると、
何故かとても、心が落ち着く。
先輩が背後でドアを閉めて、一応部室として使っているからなのか何なのか…
かなり旧式であろうポットのコンセントを入れた。
そして先輩も、向かいのソファに座る。
「…今コーヒーを入れますから、ちょっと待ってて下さい」
視線を床に落として、先輩が独り言みたいな溜息を吐く。
「…先輩、優しすぎない?」
ちょっと掠れた変な声だったけど、先輩は気にしない風で不遜に顎をあげた。
「誰が貴方の為だと言いましたか?ついで、ですよ。勘違いしないで下さい」
言いながら、呆れたように眼鏡のブリッジを指で押し上げる。
可愛くないねぇ先輩も。
思ってちょっと笑ってしまう。私よりもよっぽど可愛い人。
「…あのね、先輩」
ソファの上で膝を抱えて、窓の外を眺める。
外は重い曇り空。
灰色の大きな塊が、今にも落ちてきそう。
ふと先輩が立ち上がり、何やらがちゃがちゃと食器を出している。
慣れた手つきでコーヒーを入れる、その後姿はすらりとして細い。
…何処か百に似ている立ち姿。
「……先輩、この前言ったあの人ね…」
後姿は動き続ける。けど、先輩がちゃんと聞いているのは何となく分る。
こくんと一つ、私の喉が鳴る。言うことすらちょっと怖い。
でも、勝手に口が動く。緊張して、どんな表情をしたらいいのか、困ってしまう。
「…結ばれない人、なんだって。もう会っちゃいけないんだって…」
言いながら涙が溢れてきて、膝頭の間に顔を埋める。
嗚呼。格好悪い。
それこそ百みたいに、『それがどうした』くらいの態度で居ればいいのに。
真貴さんの言う通りになることなんか無いのに。
…でも何処かで、頭のどこかで、私も考えないこともなかったのだ。
それを単に、真貴さんが言葉にしただけで。
百は神様で。私は人間。
好きになっちゃいけなかったモノ。身の程知らずな想い。
嗚咽を殺して、せめて泣き声を出さないようにする。
ぎゅっと膝を抱きかかえて、感情を抑え込む。
好きなんだと、心が叫ぶ。この声が百まで届けば良い。
こん、と目の前のテーブルにカップが置かれる。
ちょっと目を上げると、窓の外、遠くを見つめる天海先輩の綺麗な横顔が見えた。
ぼやける視界でコーヒーカップがやたら白く優しく見えて、僅かに震える手を伸ばす。
やっとのことで一口飲んだコーヒーは苦くて、砂糖の甘さの無い独特の香りが鼻につく。
「…っ…先輩、私…ブラック、嫌…」
砂糖下さい。と、嗚咽に震える声で告げると、
先輩は何も言わずに立ち上がり、砂糖の入ったビンを持って来る。
こんな時にいつもみたいに皮肉なことでも言ってくれたら、
いつもみたいに私も言い返すことが出来るのに。
とことん意地悪で優しい人だ。
何かにムキになりながら砂糖をがばがば入れてスプーンでぐるぐる混ぜる。
その間にも無様に涙が流れて、それを必死に袖でこすった。
何が何だか、もうよく分らない。
真貴さんが言う辛くなるだけっていうのはきっと、
人が神に想いを寄せるのは禁忌って意味もあるのだろう。
だから私が辛くなると言ったのだ。永久に結ばれない想い。
それでも、好きなのだ。
「…それで、貴方はどうするのですか?まだ会える相手なのでしょう?」
先輩がやっと口を開いたので、私も自然と先輩を見つめる。
その酷く冷静で涼しげな瞳を見ていると、私も自然と落ち着く心地がした。
「…会える、と思う…でも…」
そう。確かに百はやって来るだろう。
私のおこがましい自惚れかもしれないが、いつものように遊びに来るだろう。
…いくら真貴さんが止めても?本当に?
「でも、何ですか?」
でも。
真貴さんの言うことは、恐らくとても正しいのだ。
永久に結ばれない想いを抱いて、百と笑い合う日々を数えるのは、
とても辛いことなのだと思う。
相手は神だ。
私は彼を繋ぎとめておくものなど、何も無い。
この世界を支える、尊い存在。
そして私は、彼の支える世界で『生きる』大勢の生き物の一つ。
彼はそもそも、『生きて』さえいないのだ。
彼は神であって、生物ではない。
遠い遠い人。何度生まれ変わっても届くことのない、果てなく遠い人。
今の私なんてちっぽけで見失う程。
ただの女子高生の私には知りえない世界の存在。
「…でも、もう…忘れてしまった方がいいのかもしれない…」
呟いて、その言葉がすとんと胸に落ちた。
…そうだ。どうして今まで、そう想わなかったんだろう。
妙に何かに納得しながら、漸く私の涙も止まる。
しかし先輩は、不機嫌そうに私を睨む。
「…貴方はそれで、いいのですか。泣く程に好きな相手では、なかったのですか」
「……そうだけど…でも…」
言い募る私を遮るように、先輩が身を乗り出して首を振る。
「でも、じゃありません。他人にとやかく言われて、諦められる想いだったのですか」
苛立ったように指で机を叩きながら、その眼鏡越しに冷たい視線が送られる。
…その視線には、ちょっとカチンと来る。
そりゃ、普通の殿方が好きだったら、私もそう思うかも知れないけど。
「…先輩は、何も知らないだけよ!そりゃ私だってあの人とずっと居たいし、
ずっとこの気持ちを大事にしたいよ?!でも無理なの!!」
半ば叫ぶようにして言った私を冷たく一瞥して、先輩は鼻で嗤う。
「だから何が無理なのですか?貴方こそ何も分っていない」
溜息を吐いてコーヒーを啜る先輩は、尊大な風に足を組み替えた。
「どんなに想っても結ばれることなんか、最初からなかったの!
あの人は…あの人は、私のことを好きだと思うはずがないのよ!!」
遂にソファから立ち上がって、先輩を見下ろしながら怒鳴る。
感情が昂ぶって、どうにもならなかった。
こんなのただの我侭だ。
百が私に振り向かないことへの、我侭。そんなの、当然のことのはずなのに。
だってそうでしょう。
百は人間ですらない。自然を司る神。
「…貴方は何かしましたか?振り向いてくれるよう、何かをしたのですか?」
怜悧な瞳を剣呑に光らせながら、先輩が尚も冷静に畳み掛ける。
「そんなことしたって無駄なのよ!分ってるのよ、そんなこと!!」
大きく被りを振る私の前に、立ち上がった先輩がぐっと顔を近づける。
驚いた私の目の中一杯に、嘲笑を浮かべる綺麗な顔が映りこむ。
「…ならば何も言うべきではありませんよ。
会うなと言われて、大人しく引き下がって、ずっとそうやって泣いていればいい」
そう吐き捨てて、先輩は空になったカップを持って流しに向かう。
その後姿を見ているうちに、また涙が溢れてくる。
今度は、悔しさで。
図星なのだ。
確かにちょっとは百に近づこうとしたけど、結局はいつも受身ばかりだった。
どうしていいのか分らず、どうしたいのかも見えず。
いつも百と一緒に居たいだけで。
我侭をぶつけることしか出来なくて。
百に何かを与えたりしてみたいのに、相手が神様だから諦めて。
いつも自分を卑下して、勝手に嫉妬して困らせて。
自分に対する悔しさと、我侭な自分の気持ちがぶつかり合う。
そして持ち前の負けん気なのか何なのか、一瞬理性が飛ぶ。
「…あっ…相手は、神様なのよ?!私なんかに、何か出来るの!!」
あ。
と思った瞬間には、もう叫んでしまった後だった。
精神異常か何かの宗教の信者なのかと思われたりして…?!
いや、むしろコイツはいよいよ処置ナシとか…。
冷や汗をかきながら先輩を凝視していたが…先輩はいつもの呆れた溜息も、
まして視線をこちらに寄越すこともなかった。後姿を見せたまま。
黙ったままカップに水を張り、流しの脇に手を着く。
流れる水音と、かち、かち、という時計の音だけがやたら響いた。
時間の流れがやたら遅くて、叫んだ体勢のまま固まってしまう。
そうして一時間にも一日にも思える、その沈黙を破ったのは、
先輩がちらりと少しだけ振り返り、
ちょっと怖いとも思える流し目の中に不敵な笑みを見せた後のこと。
「…だから何ですか。甘えるのも大概になさい、佐野竜胆」
その台詞のあまりの威力に、今度は呆然とする私に、先輩が完全に振り返った体勢で、
笑みを深める。まるで獲物を追い詰めたみたいに。
その声はまるで女性を口説くみたいに優しいのに、
瞳だけは触れれば切れそうな剣呑で物騒な光を宿している。
「何も出来ない己を呪いなさい。全ては貴方の責任だ。
神であろうと何だろうと…自分で相手を遠ざけるだけの貴方は、一番愚かで醜い」
**********
ぎりぎりと歯軋りしながら、ティッシュで鼻をかむ。
ずびいいいっと盛大に音を立てながら、一瞬にしてティッシュが無残な姿になる。
「ぐぞ〜〜〜〜〜〜!!!!!!悔じい〜〜〜〜〜!!!!!!」
座った状態で器用に地団太を踏みながら、私はまたティッシュを奪う。
…隣に居る泉君の手元から。
「まぁまぁ…佐野さん、とりあえず落ち着いて、ね?」
困ったように笑いながら、泉君がぽんぽんと私の肩を優しく叩く。
そしてまたティッシュを差し出して、涙と化粧と鼻水でべたべたの顔を拭ってくれた。
まるで子どもの世話をやく親みたいに。
「でんがいの、ヴァガー!!!!」
翻訳すると、『天海の馬鹿』である。一応日本語のつもりだ。
有史以来最大級に無様な叫び声の後に、また泣く。
何をどうするも、今の私には冷静さなど微塵も残っては居ない。
いくら化粧がはげて眉毛が『まろ』になっていようと、髪がめちゃくちゃになっていようと、
最早関係ない。悔しいということしか、頭に無かった。
ぐしゃぐしゃと髪を掻き毟る私の横には、笑みを絶やさない泉君。
「あの人が馬鹿なのは、今に始まったことじゃないよv」
ははは。なんて爽快に笑う泉君の手元から、またティッシュをむしる。
「ヴァガー!!!あんあやづをじんじだばたじがばるがっだんだー!!!」
日本語訳すると、
「馬鹿。あのような御方を信じてしまった私が愚かでした(一部脚色)」
になる。これは最早、日本語とは言えないレベルであるが。
そんなこんなでひとしきり叫んで、私は漸く落ち着いてきた。
そうしてふと、隣の泉君が非常に有難く感じられてくる。
同時に、気の毒にも。
あの時。
先輩に最後の一言を言われた時…私は不覚にも、
何も言い返せずに呆然と彼を見ているしかなかった。
まるで時間が全て止まってしまったみたいに、その場で凍り付いて。
先輩がふと気付いたように、流しっぱなしだった水を止めた。
そしてまた振り向いた先輩は、ちょっと変な風に顔を歪める。
先ほどとは打って変わって戸惑ったように、何かを言いかけているようだ。
「―────貴方は…」
言い掛けた先輩が、ふと図書室へと通じるドアを睨む。
そして、よく知った声が聞こえた。
「ちわ〜…って、あ!!佐野さんだーvねぇねぇ何してんの?
先輩なんて放っておいて俺と遊ぼうよ〜v」
妙に場違いな声にはっとして振り返ると、いつもの茶目っ気たっぷりな泉君。
その場の空気にそぐわない、明るい声音がやたら大きく響く。
先輩がはっとしたように視線を窓の外に映し、
もう興味が失せたように、何も言わなかった。
「…泉君…」
呆然としっ放しの私は、ただ立ち尽くす。
泉君の存在を何処か夢の中の出来事みたいに感じながら。
その私の腕を、泉君がはっしと抱きしめる。
「ねぇねぇ、どっか行こうよvこんな辛気臭い場所に居たら、気分が暗くなっちゃう」
満面の笑み付きのその仕草に、漸く私も徐々に意識が戻り始める。
ぎこちなく笑い返して、一つ頷いた。
「そだね…」
力なく笑う私の腕をぐいぐい引っ張って、泉君はもう部屋を出て行く。
有無を言わせる隙もなく、先輩の方を見ようともしない。
部屋を出る寸前に先輩の方をちらりと見やったが、先輩は窓の前に立っていて、
私に背を向けながら灰色の曇り空から指す光を受けていた。
図書室を出た泉君は、そのままずんずん廊下を進んでいく。
それに引きずられるようにして付いていきながら、
ああ泉君の力が強いな、なんてことをぼんやり思った。
あの部屋ではあんなにはしゃいでた泉君が今は何も言わないのを、
少し有難く、そして少し申し訳なく思いながら。
すると彼が徐に立ち止まり、中の居室に誰もいないことを確認すると、その教室へと入っていく。
そうしてやっと私の手を離すと、真ん中辺りの机にひらりと腰掛け、
手を離された入り口付近でぼうっとする私を手招きした。
とぼとぼと覚束ない足取りで近くの机に同じように腰掛けて、
丁度机一つを挟んで隣同士に座りながら、
お互い黙ったまま何も書かれていない黒板を見つめる。
そして徐に、泉君が私の肩を叩く。
ぽんぽんと、まるであやすみたいに。
まるで全て知っているとでも言っているみたいに。
それで、箍が外れてしまったようで。
私の両目からぶわっと涙が滲んでくる。
…それで、冒頭の無様な泣き方まで発展してしまったというわけだ。
「…ふっ…く、…うう、いずびぐん…ありがどおね…」
やっと冷静に(?)お礼を言いながらも、またティッシュをもらう。
びーん、と鼻をかんで、教室のゴミ箱に捨てる。
「…はぁ…でも、それはきっついよなぁ。天海先輩、容赦ないね」
何処か呆れたように言いながら、
机に腰掛けているせいで床に着かない足をぶらぶらさせる。
泣いた所為でぼんやりした頭で、私も一つ緩慢に頷く。
「…でも、全部図星だった…私、百に何もしてない…」
呟いた後、ふと沈黙が降りる。
何も考えられない頭で、ああ雨が降ってきたな、なんて思った。
さやさやと幽かな音が聞こえた。
しんとした教室は全てが静止してしまっているみたいで、隣の泉君をそっと盗み見た。
泉君は視線に気付いて、私に静かに笑いかける。ちょっと大人びた笑い方で。
「……ねぇ佐野さん、人間はなんて我慢強いんだろうね…強いなぁ」
しみじみと呟く泉君の声も静かで、私は不思議な心地になる。
まるで密室みたいな教室の中で、静かな泉君と雨音がやけに自然で。
「…どうして?」
馬鹿みたいな鼻声で問いかければ、彼はちょっと首を傾げて、窓の外を見やった。
「だってさぁ…俺が抱くこういう…佐野さんみたいなそういう気持ちに、耐えるんだよ。
俺なら力ずくで思い通りにしちゃうね、その人間の運命ごと…けど、そうするともう、
きっと佐野さんは佐野さんじゃないんだ」
だから、凄く強いね。相手のことを想うって、強いことだね。
感心したように言って、泉君がははっと笑う。
神はこらえ性無いねって小さく呟いて。
恥ずかしいことに、私はそこで初めて泉君の気持ちを思った。
そうなのだ。
泉君とて、そういう風に私を想っているのだ。
「……ごめんね…泉君…」
項垂れて言った私に、泉君は何も言わなかった。
けれども、少しの間を置いた後、身軽な動きでひらりと机から降りて、私に笑いかける。
「一緒に居ようよ佐野さん。俺はそれで幸せなんだ」
雨雲も払拭出来そうな綺麗な笑顔は、心からそう言っている様に見えて、
また私は自分が失敗したことを悟った。
強くて優しいのは泉君のほうだよ。
そう言おうとして…けれどそれすら、泉君ではなく今の私を慰める陳腐な言い訳に思えた。
「…有難う」
笑いかけて、辛いね、と呟いた。
泉君もそれには一つ小さく頷いた。
「でもね、そういう風に百みたいなヤツのことを一生懸命に想ってる佐野さんも好きだよ」
一介の神としてね。
高校生みたいに無邪気に言いながら、泉君は少し照れたようにまた笑う。
つづく
NEXT
NOVEL TOP
|