(…なんだ、これは)

ある日曜の穏やかな昼下がり。
午後になってようやく起き出した不破は、窓ガラスに映る自分の姿が一匹の黒猫に変わっていることに気がついた。
はたはたと揺らめく長い尻尾。
手のひらにはピンクの肉球。
頭のてっぺんから尻尾の先まで全身真っ黒の毛並み。
(なぜこんなことに?)
声を出そうと思ったが、喉を震わせたのは人間の言葉ではなく、『にゃー』という猫の鳴き声だった。
俄かには信じがたい事象の原因として、考えられることは。

(…アレしかないな)

思い当たる出来事が一つだけある。
それは昨夜のこと。
不破は本に夢中になっていて、つい夜更かしをしてしまった。
そして不意に喉の渇きを覚えた不破は、半分寝惚けた状態で冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターと思しきペットボトルを見つける。
半分ほど一気に飲み干してから、何やらおかしな味がすることに気づいてよく見ると、そのペットボトルにはラベルが貼られていなかった。
この家では、ラベルの無い容器に入っているものは十中八九、父・大陸作のろくでもない薬だと相場が決まっているのである。

(寝惚けてさえいなければ、みすみすあんな怪しげな液体を口に入れたりしなかったものを…、やはり睡眠不足は判断能力を著しく鈍らせていかん)
しかし、今更後悔しても先には立たない。
(とりあえず、これからどうするか…)
元凶と思われる父・大陸は、数日前から勤め先の研究所に籠もりきりになっている。
母・乙女は海外出張でしばらく帰らないし、居たとしても今の不破の姿を見て自分の息子だと気付くかどうかは怪しいものだ。
それよりも問題なのは、祖父・大作の存在である。
以前、窓から入り込んだ野良猫に完成間近の発明品を壊されたことがあり、それ以来彼は猫が大嫌いなのだ。
(見つかると厄介だな、何をされるか分からん)
とりあえずきょろきょろと部屋を見渡すと、窓の鍵が開いていた。
昨夜は暑かったので少し窓を開けたのだが、寝る時に鍵を閉めるのを忘れてしまっていたらしい。
(不幸中の幸いかもしれんな)
不破は両の『前足』で何とか窓を空け、猫の姿のまま外へ飛び出した。


猫の目線で見る世界はいつもとは全くの別世界だった。
見慣れた自宅や公園の木々はてっぺんが見えないほど高くそびえ立っているし、人間より色覚能力が劣るために、色鮮やかだった街路の花壇もぼんやりと霞んで見える。
その代わりに、人間の時より視界がはるかに広い。
道を行き交う人の声は、女子高生のおしゃべりから老人の小さな独り言までハッキリと聞き取れた。
(聖徳太子になったような気分だな。…さて、これからどうしようか)
猫の姿では、外は危険も多いだろう。
(…あそこへ行ってみるか)
頼りになりそうな伝手を求めて、不破は河川敷を目指した。


そして予想通り、彼はそこにいた。
橋脚に描かれたゴールのラインに向かって、サッカーの練習をしている風祭の姿がある。
不破は一直線に駆け寄った。
(おい、風祭)
話しかけてみたが、やはり言葉は『にゃあ』という鳴き声になる。
「あれ、猫?」
その声に気がついた風祭は、しゃがみ込んで不破の顔を覗き込んだ。
「ボールが当たったら危ないよ、家に帰りな」
(風祭、俺だ、不破だ)
「もしかして捨て猫なのかな?この辺じゃよく捨てられてるの見かけるし…でもごめんね、功兄のマンションじゃ猫は飼えないんだ」
(…やはり分からんか、まあ無理も無い)
あまり構うと愛着が湧いてしまうと思ったのか、風祭は名残惜しそうにしつつも足早に去っていった。


次の行き先に不破が選んだ場所は、通い慣れた桜上水のサッカー部の部室であった。
見れば、部室の少し扉が開いている。
今日は練習は休みだが、もしかしたら誰か来ているかも知れないという期待が当たったのだ。
覗いてみると、そこにはシゲと水野がいた。
「まったく、忘れ物ぐらいでせっかくの休みに呼び出すなよな」
「しゃーないやん、月曜までに出さなあかん宿題やってもん。タツボンとこも同じの出てたやろ?ついでにうつさしてえな」
「…そっちが目的だったな、お前」
どうやらシゲが部室に忘れ物をしたので、水野を呼んで鍵を開けさせたらしい。
(…結果は同じだろうが、一応声をかけてみるか)
駄目で元々、不破はとりあえずシゲの足元にトコトコと歩み寄ってみた。
「おっ、何やお前。どっから入ってきよったん?」
幸いシゲは猫の存在にはすぐ気が付いた。
だが、不破の首根っこをつまんで持ち上げたものだからたまらない。
皮膚が伸びるので痛くは無いが、皮が引き攣って喉がぎゅっと絞まっているのだ。
「に゛ゃ…」(放せ佐藤、くるしい)
「首輪しとらんし、野良猫やろか?それやったらお前、ウチ来るか?」
呻く不破に気付かないシゲは呑気に笑っている。
「やめろよシゲ、猫の首根っこはそうやって持ち上げるものじゃない」
「へ、そうなん?せやけど親猫はこうやって子猫持ち上げるやんな?」
「それは子猫の場合だけ。大人の猫なんか持ち上げたら首が締まるだろ」
水野はシゲから不破を取り上げると、毛の逆立った猫の身体を慣れた手つきで宥めた。
(ふう…何とか助かったか)
息苦しさから解放されて、不破はホッと息を吐いた。
どうやら水野の方が動物の扱いに慣れているようだ。
「それにこいつ、多分飼い猫だよ。ずいぶん人慣れしてるみたいだし、野良にしては小奇麗だ」
「ほー、確かになあ。ほんなら勝手に連れて帰るわけにいかんな」
「ほら、迷子になる前にウチに帰れよ」
水野に抱えられた不破は、そのまま窓から外に出されてしまった。



部室を追い出され、不破は次の行き先を考えながら歩き始めた。
小学生くらいの子供が自分の姿を見つけては騒ぎ立てる。
煩わしさと危険を感じてどんどん人通りの少ない道に入って行った不破の前に、突然大きな犬が現れた。
首輪はしておらず、少し痩せた身体と汚れた毛並みから見て、どうやら野良犬のようだ。
(まずいな、この体格差ではとても敵わん)
走って逃げてもこのリーチの差ではすぐに追いつかれてしまうだろうし、何より背中を見せるのは危険だ。
不破は野良犬の睨みからは目を逸らさず、周囲の様子を窺った。
見ると、野良犬の背後に街路樹が並んでいる。
(逃げ道はあそこしかないか…)
実際はそれほどの高さではないのだろうが、今の姿ではてっぺんが見えないほど巨大な樹だ。
本当の猫ならばあの樹に登るくらい容易いことだろうが、不破はまだ猫の身体に不慣れである。
(爪の出し方がまだよく分からん、一気に飛び上がるしかないか…)
対処法を慎重に考えていると、睨み合いに痺れを切らした野良犬が襲い掛かってきた。
「ワン!!」
(くっ…!)
不破はほとんど反射的に最初の一撃を交わすと、そのまま思い切って後ろ足で踏み切った。
自分でも驚くほど簡単に身体が飛び上がり、何とか高い枝にしがみついて難を逃れた。
しかし、致命傷は辛うじて逃れたものの、野良犬の爪が掠っていたらしい。
右腕、もとい右の前足から血が出ていた。

野良犬はそれからしばらく樹の下でウロウロしていたが、やがて諦めてどこかへ行ってしまった。
(さて、一難去ったが…)
見下ろす地面は随分遠い。
この高さから飛び降りることは可能なのだろうか?
猫の身体の仕組みから言って、頭から落ちることはありえないのだろうが、それでも飛び降りるには躊躇われる高さである。
おまけに前足に怪我を負った状態で、『無事』に下りられるかどうかは甚だ疑問だ。
樹の上でしばし途方に暮れていると、下からチッチッと舌を慣らす音が聞こえてきた。
「ほら、おいでおいで」
(む…?)
覗き込むと、木の下に誰かいる。
手を広げて不破を受け止めようとしてくれているようだが、青々と葉をつけたいくつもの枝が邪魔でよく見えない。
少し身を乗り出してみたその時、怪我で踏ん張りの利かなかった右の前足がつるりと滑った。
「あっ…!」
「にゃっ」
爪を出す暇も無い、あっけない転落。
しかし猫の身体は自然にくるりと回って着地体勢を整える。
「わ!…っと」
不破はそのまま下の人間の腕に飛び込むようにして受け止められた。
「…あー、びっくりした、大丈夫だったか?」
かけられた声に促されて見上げた顔は、見知った人間のそれだった。
(渋沢…!)
Tシャツにジャージというラフな格好で、タオルを首にかけた渋沢であった。
どうやらこの路地は渋沢のロードワークのコースだったようだ。
(む……)
ふと、自分の怪我ではない別の血の匂いがすることに気付いた不破は、自分を抱えている渋沢の腕に視線を落とした。
そこには幾つもの滲んだ赤いラインが走っている。
受け止められた際、無意識に爪を出してしがみついてしまったらしい。
しかし、渋沢はそんなことは気にも留めない様子で笑っている。
「登って降りられなくなったのか?ドジなやつだな」
渋沢は不破を地面にそっと降ろすと、ポケットから紺色のハンカチを取り出して不破の前足の傷口に巻きつけた。
「他の野良猫と縄張り争いでもしたのかな、この怪我じゃエサ探しも難儀だろう」
(歩けないほどではない、平気だ)
そう答えたものの通じるはずもなく、不破は再びひょいと抱き上げられた。
(まさか、俺を連れて帰る気か?)
「こら、暴れるなって」
これ以上家から離れることは避けたいと考える不破は、何とか身を捩じらせて抵抗した。
しかし、その度に渋沢の腕につけてしまった引っ掻き傷が視界に入る。
爪の制御が上手くできない状態で暴れては、また傷をつけてしまうかもしれない。
(……まいったな)

結局不破はそのまま武蔵森のサッカー部寮である松葉寮に連れ帰られてしまった。





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